特設サイト第3部 第9回 伊勢湾台風と附属高校

  • 臨時寮の閉鎖を前に旧1号館屋上での記念撮影(1959年11月)
    臨時寮の閉鎖を前に旧1号館屋上での記念撮影(1959年11月)

遮断された近鉄通学

  • 臨時寮での思い出を語った堀尾さん(臨時寮があった旧1号館跡で)
  • 臨時寮での思い出を語った堀尾さん(臨時寮があった旧1号館跡で)

愛知県、三重県を中心に大きな被害をもたらした1959(昭和34)年9月26日の伊勢湾台風。理工学部と同じ名古屋市中村区新富町の庄内川沿いに校舎があった附属高校では、古い木造校舎の屋根瓦が吹き飛ぶなどの被害はあったものの生徒の人命が犠牲になることはありませんでした。ただ、当時は三重県方面からの通学者が多く、近鉄電車の本格的な復旧が11月末までかかったため、生徒たちの通学にどう対応するかが大きな課題になりました。
母校でもある名城大学附属高校で、65歳の定年の2006年まで体育教員を務めた堀尾雅明さん(72)(三重県鈴鹿市)は、伊勢湾台風当時、普通科の3年生でした。鈴鹿市の白子駅から近鉄電車、名鉄電車を乗り継いでの通学でしたが、木曽川、長良川、揖斐川を始めとする河川の氾濫や高潮によって、路線は随所で寸断されました。近鉄では復旧工事と併せ、軌間拡幅工事も行ったため、名古屋~大阪間の復旧は11月27日までかかりました。
伊勢湾に面した鈴鹿でも北部では海岸から1キロ近くまで、あちこちに船が打ち上げられていました。堀尾さんは2011年3月11日の東日本大震災で、巨大津波に襲われた太平洋沿岸の様子をテレビで見た時、「伊勢湾台風の時の鈴鹿の海岸の光景と同じだ」と思ったそうです。
まだ、各家庭に電話がなかった時代で、学校から何も連絡がないまま1週間が過ぎました。10 月3日ごろ、やっと鈴鹿地区の生徒たちのもとに、鈴鹿市白子本町にある青龍寺に集まるよう連絡が回ってきました。
集まった堀尾さんら15人ほどの生徒たちに、今後の方針を説明したのは附属高校の国語教員で、青龍寺の住職でもあった鷲尾弘範さん(元副校長)(85)でした。当時、30歳だった鷲尾さんは、間もなく授業が再開されることを説明。しかし、近鉄線の復旧はまだ先のため、名古屋の親戚を頼るか下宿先を見つける、学校が用意する宿泊施設を利用するかのいずれかを選び通学するよう学校側の指示を伝えました。堀尾さんは学校が用意する宿泊施設を利用することを選びました。

4割が三重県出身

  • 1958年当時の木造校舎での授業風景(1979年発行の『名城大学附属高校の歩み』より)
  • 1958年当時の木造校舎での授業風景(1979年発行の『名城大学附属高校の歩み』より)

堀尾さんら1959年度卒業生は448人。同年度の定時制を含めた全校生徒は約1600人で、全日制には普通科、商業科、電気科、機械科の4学科があり堀尾さんは普通科でした。普通科の2クラスから合わせて20人ほどが名城大学に進学しましたが、日本体育大学に進学した堀尾さんのように東京の私大や、国公立大学への進学者はごく少数。全卒業生の大半は就職していた時代でした。
堀尾さんらが1960年3月に卒業した時の普通科は2クラスで計125人でしたが、入学時は3クラスでした。退学者が多く1年生から2年生に進級した時点で2クラスになりました。鈴鹿から通った堀尾さん始め、桑名、四日市、松阪など約4割が三重県からの通学生。三重県では当時、私立高校が少なく、県立高校に進学できなかった生徒の多くが愛知県の私立高校に通っていました。名古屋の梅村学園がまだ三重高校(松阪市)、享栄学園が鈴鹿高校(鈴鹿市)を開校していない時期で、名古屋駅からも遠くない名城大学附属高校は、交通アクセスの便利さからも三重県の生徒たちの受け入れ校となっていました。
鷲尾さんは京都の大谷大学を卒業し、1952(昭和27)年4月から名城大学附属高校の教員になりました。

鈴鹿から米原経由で名古屋へ

伊勢湾台風後、三重県から通学する生徒たちの中には、桑名から養老線を使い、大垣を回って名古屋に出てきた生徒もいれば、四日市港から名古屋港まで船で渡って通学してくる生徒もいました。臨時寮はこうした生徒たちの不便さを解消する狙いもありました。
鈴鹿の青龍寺に、生徒たちを迎えに来た学校所有のボンネットバスが到着したのは10月8日。臨時寮に向かう生徒たちの第1陣20人近くが乗り込みました。木曽三川河口を迂回するため米原~大垣を経て、12日ぶりにたどりついた母校でした。堀尾さんは、この時の様子を附属高校新聞部?文芸部発行の文集『名城』第3号(1960年2月25日発行)に書き残していました。

来春(大学)入学試験だというのに、ここまで学校を休んでしまったら大変だと気はあせってもどうともならない。そのような気持で毎日を不快に過ごしていたところ、10月8日、学校のバスが我々を迎えに来てくれた。しかし、近鉄のように1時間では来られない。大津を回り、大垣を経て来たのだ。それも国道1号線のように、道路はアスファルトではない。そのうえバスは学校のやつだ。お世辞にも良いとは言えない。そのバスに乗って延々12時間の旅だった。学校に着いたのが午後9時過ぎだった。でも私たちは元気だった。12日ぶりに見る学校もまた良かった。

鉄筋4階新館の臨時寮

  • 名城大学附属高校の集団生活を紹介した朝日新聞記事(1959年11月)
  • 名城大学附属高校の集団生活を紹介した朝日新聞記事(1959年11月)

学校側は、集団生活を送ることになった生徒約180人のために、前年1958年に完成したばかりの鉄筋4階建て校舎である「1号館」の4階3教室を臨時寮にあてました。床の上に花むしろ(ござ)を敷いた教室部屋で、堀尾さんたちの1か月半余に及ぶ寮生活が始まりました。
午前7時起床。校庭に全員集まってのラジオ体操。8時からの朝食の後に登校です。朝食は理工学部の学生用の学生食堂が、寮生たちのために用意してくれました。夕食後の午後6時からはレクリエーションタイムが設けられ、コーラス、16ミリ映画上映、盆踊りなどが企画されました。レクリエーションタイム後は自習で消灯は10時半でした。
堀尾さんは、高校時代は柔道部員でしたが、将来は母校の体育教員になり、体操部をつくろうと決めていました。受験勉強の一方で、ラジオ体操の指導など寮生活の運営ではリーダー役を務めました。
11月5日には、三重県方面とのバス路線が開通。臨時寮の閉鎖案も出ましたが、「近鉄が復旧するまで存続してほしい」との声が圧倒的で、継続が決まりました。附属高校の寮生活は新聞やテレビでも紹介されました。朝日新聞では、輪投げでくつろぐ生徒たちの写真とともに紙面を広く割いて紹介しました。「高校生180人が集団生活 三重県から通学の名城大附属高生 打ち解けて助け合う 近鉄の開通までがんばる」の見出しが立てられています。NHKテレビも「台風で高校生が寮生活」と、名古屋発の欧洲杯足球网_十大博彩公司-投注官网を伝えました。

短歌に綴られた伊勢湾台風

附属高校では国語担当の鷲尾先生らの指導もあり、文芸部や新聞部の活動が活発でした。堀尾さんが寮生活の思い出を綴った新聞部?文芸部発行の文集『名城』3号には、1年生10人の伊勢湾台風を題材にした短歌も紹介されています。

吹きすさぶ風にもめげずロープはり屋根にて叫ぶあわれあの人
朝もやの中を飛びかう飛行機に必死にさけぶ人の姿よ
台風の到来告げる強き風夜もねむれぬ人のかげかな
大水にのまれながらもあきらめず小板につかまるどぶねずみかな
屋根の上何のことなく寝ていてもやはり気になる家族の命
枯れ枝に姿みせ来るみの虫に嵐の強さまた思い出す
ごうごうと音たてて行くどろ水の中に消えゆく人の命か
ぼうぜんとしている人の目になみだ子供を水にのまれたらるし
猛風に雨戸をおさえ老い母がナムアミダブツととなえつづける
台風のあとかたづけに疲れたり屋根の上より夕焼をみる
伊勢湾をわがもの顔にかけまわりあっという間に命のまるる
洪水の水のあふるる道走る自動車白く波立てて行く

  • 附属高校での教員時代を語った鷲尾さん(鈴鹿市の青龍寺で)
  • 附属高校での教員時代を語った鷲尾さん(鈴鹿市の青龍寺で)

『名城』3号には随想、評論、自由詩、俳句、短歌など生徒は90人の作品が収められています。「あとがき」には、「文集は、国語教育の一分野として取り組まれた作文教育の結果である」とも書かれています。国語教員の1人だった鷲尾さんは、55年前の伊勢湾台風を綴った当時の高校1年生たちの作品が掲載されたページをめくりながら懐かしそうでした。
「直接指導したのは別の先生だと思いますが、私も少しは手伝ったかも知れません。生徒たちは、経験したから書ける描写で見事な短歌をまとめています。母親がナムアミダブツを唱えている情景をそのまんま書いた歌もありますね」。

田中理事長の入学式祝辞

  • 文集『名城』3号の「あとがき」
  • 文集『名城』3号の「あとがき」

『名城』3号には、1959年4月に入学した1年生たちの、田中壽一理事長が入学式で述べた祝辞についての感想文も紹介されています。
「入学式が始まった。初めに理事長の田中先生からの話があった。先生の声は強くて、良い話をしてくれた。(中略)家に帰って夕食の時、父と兄弟3人に今日の理事長先生の話をしてやった。皆、いい話をしてくれたねえとにこにこしながら言った」
「入学式の日、理事長さんからご挨拶があった。〈秀才とはエネルギーだ〉と、何事も努力することを強く話され、僕の耳に深く食い入って、今日より高校生としての新しい大きな希望を抱いた。(中略)理事長さんの話の〈エネルギー〉〈努力〉、この言葉を頭の中にしっかりと記憶して、たくましく学び、希望に輝く名城高校の生徒として恥ずかしくない行為をしていきたい」

1954年11月15日に退陣表明を出していた田中理事長は、1958年8月14日、日本私立大学協会の河野勝斎会長(日本医科大学理事長)の仲介で、理事長復帰を果たしていました。これにより学園の正常化が進むものとの期待が高まりましたが、1959年7月17日、田中理事長は突如として日比野信一学長を罷免するなど自らの意に沿わぬ役職者たちを次々に排除。学内からの反発が一気に高まった伊勢湾台風の前後、田中理事長は学内に姿を見せず、大学も高校も経営機能を喪失する状態に陥りました。
附属高校では老朽化した木造校舎に代わる鉄筋校舎建設が切望されていましたが、法人理事会が機能を失う中、PTAを事業主体に、新校舎の整備に取り組まざるを得ない状況でした。1958年秋に完成した待望の鉄筋4階建て1号館も、PTA役員たちの個人保証により銀行からの融資を受けての建設でした。

合唱された「時は今」

堀尾さんが文集に記した寮生活の思い出の一文の最後は「時は今」という短歌で締めくくられていました。朝の全校集会や、一日の締めくくりとして夜10時半の消灯前など、皆で合唱したのが「時は今」でした。「時は今、ところ足もと、そのことに、うちこむ命、永遠のみ命」。生徒たちと寮生活をともにしながら励まし続けた数学の一川伝四郎教諭が短歌に曲をつけたもので、生徒たちは何度も合唱しました。
鷲尾さんが「<時は今>は、最近の流行語である<今でしょ>の源流にあたる短歌です」と解説してくれました。「<時は今>を詠んだのは仏教学者で、名古屋の東海中学?高校の校長も務めた椎尾弁匡(しいおべんきょう)(1876~1971)先生です。一川先生も椎尾先生の教えに心酔し、椎尾先生のグループに入っていました。寮生活を続ける生徒たちを、椎尾先生の歌を通して励まそうとしたのでしょう」。
椎尾弁匡は、「時は今」の短歌を1913(大正2)年、旧制東海中学に校長として赴任し詠みました。「大切なのは今。足元を省みて、何ごとに対しても一生懸命打ち込もう。それが永遠の命につながるのだ」という意味です。やはり東海高校で学んだ予備校講師の林修さんが、テレビCM「いつやるか? 今でしょ!」で新語?流行語大賞年間大賞を受賞したのは、それからちょうど100年を経た2013年でした。

屋上の記念写真

  • 加藤行信校長(1979年発行の『名城大学附属高校の歩み』より)
  • 加藤行信校長(1979年発行の『名城大学附属高校の歩み』より)

臨時寮で180人の生徒たちが送った集団生活の終わりにあたり、生徒たち教員との記念撮影が、1959年11月に1号館屋上で行われました。前年に完成したばかりの1号館は当時、周辺では唯一の鉄筋4階建ての建物でした。屋上からは名古屋駅や名古屋城など名古屋の中心部を見渡すことができました。堀尾さんたち入寮者たちは、よく、この屋上に上がっては名古屋の街並みを見渡し、「あの名古屋駅まで近鉄電車がきたらすぐ帰れるね」と、言葉を交わしたと言います。
180人近くを1枚の写真に収めるため、記念撮影は屋上にある給水塔の段差や階段も利用して行われました。「屋上両側のフェンスよりも上に立ち並ぶにはちょっとした勇気が必要でした」と堀尾さんが語るように、高所恐怖症の人でなくてもかなりスリリングな時間帯であったに違いありません。「右側フェンスの上にいる教員2人のうち、下の方が私です」。鷲尾さんも写真に写っている自分を懐かしそうに指さしてくれました。
鷲尾さんが1952年に名城大学附属高校に教員として就職したのは、当時の加藤行信校長からの強い誘いがあったからでした。加藤校長も青龍寺と同じく鈴鹿市にある専照寺というお寺の住職。東京大学を卒業し、三重大学教授を退職後、名城大学附属高校の校長に招かれ、1951年から1957年まで校長を務めました。「難解な言葉はほとんど使わず、“One step more”(もう一歩前に)と生徒たちを励まし続けた先生でした」と鷲尾さんは語ります。
鷲尾さんは65歳の定年まで3年を残して1992(平成4)年、附属高校での40年の教員生活を終えました。教務主任、教頭、副校長を歴任した鷲尾さんは、校長就任要請を懇請されていましたが、「檀家には以前からもう住職に専念すると約束していますので」と丁重に断り、附属高校に別れを告げたそうです。

真夏の太陽が照りつける中、訪れた青龍寺。境内からの蝉しぐれで、時おりかき消されそうな鷲尾さんの話を聞きながら、1933(昭和8)年に設けられた名古屋高等理工科学校中等部が母体となった名城大学附属高校の81年の歴史の中で、創設者が「秀才とはエネルギーだ」と叫ぶ一方で、仏教精神による教育が生徒たちの心をつかんでいた時代があったのだと思いました。

  • 現在の1号館8階大会議室から望む名古屋駅方面。堀尾さんたちが見渡したのは4階屋上からでした。
    現在の1号館8階大会議室から望む名古屋駅方面。堀尾さんたちが見渡したのは4階屋上からでした。

1959(昭和34)年度の附属高校卒業生 『名城大学75年史』より

  普通科 商業科 電機科 機械科 合計
全日制 125人 105人 111人 107人 448人
定時制     19人 18人 37人

(広報専門員 中村康生)

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