トップページ/欧洲杯足球网_十大博彩公司-投注官网 経済学部で旧満州に渡った「東三河郷開拓団」の橋本克己さんを招いた特別授業を開催

特別授業で講演した橋本さん 特別授業で講演した橋本さん

経済学部の渋井康弘教授が担当する科目「社会フィールドワークⅠ」で、旧満州に渡った「東三河郷開拓団」の橋本克己さんを招いた特別授業が6月4日、天白キャンパスの共通講義棟北であり、講義を履修する学生約40人が貴重な話に耳を傾けました。

1941年、橋本さんが6歳の時に、父親が「満州にいけば土地がただで手に入る」と聞き、一家で満州への移住を決めたそうです。「うちは本当に貧乏でした。地主ではないため、農地も持っていない。土地が持てるのは夢だった。しかも、満州に行く1年ほど前に火事で家が燃えてしまって。その一方で、国策として愛知県からも開拓団を出さないといけない。濃尾平野や安城のあたりは農業が盛んで希望者がいなかった。それで東三河の貧乏家族がターゲットになったんです」と当時のいきさつから話しが始まりました。

夢に見た土地は想像を絶する過酷な環境だった

  • 渋井教授がインタビュアーを務め進行 渋井教授がインタビュアーを務め進行

最低限の荷物を手に、ひしめき合う貨物船の船底に揺られての渡航。苦労して辿り着いた現在の中国黒竜江省に入った開拓団でしたが、与えられた土地は湿地帯で真冬の気温は零下40度。「コメもできない土地。寒さは想像を絶していて、寒いというより痛い。鉄製の洗面器に水を入れて、洗面器を素手で触ると指がくっついてしまい、皮膚が剥がれ、そこから凍傷になってしまう」と、夢に見た土地の過酷な環境を説明しました。

開墾がある程度進み家畜が増え始めた頃、父親は戦場に向かうことになったようです。「開拓団に入れば“鍬の戦士”だから徴兵はないと言われていました」。戦況が危うくなっていることを子供たちも感じていたようで、軍用の油の原料になるヒマシ(トウゴマの種)を校庭に植えはじめたそうです。「上級生が『日本が危なくなってきた証拠だ』と話しており、満州の果てまでその影響が出始めて、寂しい思いをした」と振り返りました。

安住の地を求めチチハルへ

1945年8月15日、終戦を迎えましたが、現地では8月15日にも残っていた男性に召集がかったといいます。「8月15日にお年寄りも含め、男性全員が出かけて行ったが、翌日には歩いて帰ってきた。それで終戦を知った」と話しました。しかし、ここから、さらなる地獄が始まったようです。「一家に1つ持っていた銃を取り上げられ、頼りにしていた関東軍もいつの間にかいなくなった。お金も家畜も次々と取られてしまった」。当時、『生きて虜囚の辱めを受けず』と教育されており、生きる道を選ぶか、集団自決を選ぶか、800ほどの開拓団も決断を迫られました。「47か48の開拓団は集団自決を決めたようです。川に飛び込むことを決めた開拓団で、ある母親は怖がる我が子を川に突き落とし、自分の身も投げたと聞いた。その時の母の気持ちを考えると…」と声を詰まらせました。

敗戦直後から現地での立場は逆転し、たびたび襲撃に合うようになったそうです。「この場所にいることはできない。他の開拓団と一緒に、チチハル(かつて日本軍が駐屯)を目指すことにした」。200ほどの距離を徒歩で目指し、その道中もソ連兵の襲撃にも合いながら、奇跡的に父親と再会できたそうです。「シベリアに連行される列車から脱走した父と再会でき、盆と正月が一緒にきたほど嬉しかった」と話し、「しかし、2月か3月の寒い時期の移動で、野宿したら全員凍死。現地の農民の家に泊めてもらった。それがあったから、今の命がある。農民で戦争が好きな人はいない。感謝してもしきれない」と、語られることの少ない農民同士の国を越えた温かさも伝えました。

しかし、ようやく辿り着いたチチハルも安住の地ではなかったようです。5月を過ぎると伝染病が流行し、シラミにも悩まされたそうで、「シラミは夜行性で寝ている間に食われ、それが痒くて痒くて。医者はみんな日本へ帰るか、姿を消してしまっていて、病気になれば死ぬしかなかった」。そして7月7日の七夕、ついに母親と父親が1時間違いで亡くなり、生き残った弟と妹も後を追うように亡くなってしまったということです。残されたのは克己さんただ一人。それから1カ月後、日本人の総引き上げが始まります。「もう少し、この知らせが早ければ、家族も頑張れたかもしれない」と唇をみました。失意の中、命からがら引き揚げ船で帰国を果たし、母方の叔父に引き取られたということでした。

  • 学生からも質問が相次ぎました 学生からも質問が相次ぎました
  • 講義の様子 講義の様子

「国策とはなんだったのか。満州開拓とはなんだったのか」

  • 直筆で書かれた「努」を掲げ、夢を持つ大切さを語る橋本さん 直筆で書かれた「努」を掲げ、夢を持つ大切さを語る橋本さん
  • 学生たちにこの講演をしっかり受け止めてほしいと話す渋井教授 学生たちにこの講演をしっかり受け止めてほしいと話す渋井教授

橋本さんは「『食料増産』『北方防衛』を掲げて、軍事的な人間の盾として開拓団を満州に送り込んだ。国策とはなんだったのか。満州開拓とはなんだったのか」と問いかけました。そして最後に、「ユメという漢字は『夢』ともう1つある。それは努力の『努』と書いてユメと読む。夢を持つ、夢に向かって努力を重ねてください」とし、「殺し合いなんていう馬鹿げたことのない世界、平和な世界を作ってください」と若い学生たちにその想いを託しました。

授業を担当した渋井教授は「橋本さんがいた開拓団が集団自決という決断をしていれば、橋本さんも今ここにはいなかった。橋本さん自身も、思い出すだけでも辛いはずです。けれども、それでもあえて皆さんに伝えようとしてくださった。それが何か、しっかり受け止めほしい」と学生たちに呼び掛けました。

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